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プロジェクト

晴好夜学〈第5回〉
「先祖から引き継がれる 黒田の武士魂」
兵衛忠一さん

 今回の「晴好夜学」では母里太兵衛の子孫で、柳生新影流の師範でもある母里市兵衛忠一さんを招き、黒田藩の歴史やご先祖の話を伺った。そこから見えてきた武士の生き様とは――。

会場:建立寺 講師:母里市兵衛忠一さん

プロフィール/黒田武士のシンボル・母里太兵衛子孫の二十四代目。かつては居酒屋を経営していたが、現在は黒田藩に伝わる新影流の文化啓蒙活動に専念している。

黒田藩の戦国武将・母里太兵衛の子孫である母里市兵衛忠一

 一人の武士が槍を抜いた。他を寄せ付けない気迫、一点に集中する鋭い眼光。黒田藩の戦国武将・母里太兵衛の子孫である母里市兵衛忠一さんだ。静寂を破るかのように腕をふりあげた瞬間、その場にいた誰もが息をのんだ。迷いのない槍は瞬く間に巻藁をスパッと切り裂く。「活人剣の居合いを見ていただきました。”戦わずして勝つ”というのが新影流の奥義です。最小限の動きで、無駄なく合理的に打つ。こういう面が評価され、将軍家から代々伝わっているのだと思います」拍手喝采を浴びた達人は、建立寺の仏前に一礼を済ませ、それまでの緊張した面持ちとは打って変わって、柔和な笑顔で破顔一笑、話し始めた。

黒田藩の成り立ち

 「現在の福岡県西部を指す『筑前国』のほぼ全域を領有していた藩を、福岡藩と呼んでいました。ここの藩主が外様大名の黒田氏であったことから『黒田藩』という俗称が名づけられたのです。今日はせっかくですから、黒田藩という呼び名で話をいたします」学生の頃に受けた日本史の授業内容を思い出してみる。地元が佐賀の私は小学生の頃から佐賀藩の歴史を懇々と教え込まれてきた。が、正直、あまり記憶にない。漠然と、福岡藩と黒田藩、佐賀藩と鍋島藩は別のものだと思っていた自分を恥じた。あれは、俗称だったのか。
 「福岡県の名前の由来を皆さんはご存知ですか? 実は、黒田藩の初代藩主・黒田長政が現在の中央区に築城した際に、出身地である備前国(現在の岡山県)福岡庄にちなんで「福岡城」と名づけたことに由来しています。舞鶴公園に建つ石城がそれです。ここに藩が置かれたことから、県の名が福岡県になったそうです」黒田家の歴史をつづった「黒田家譜」にも「城の名を福岡と号す。これは長政の先祖、黒田右近大夫高政、下野守重隆父子、ともに備前の国巴久郡福岡の里の人なれば、その本を思い出て、先祖の住所の名を用いて名づけ拾う」と記されている。福岡県を名づけた黒田藩。その黒田藩に仕えていた武将の子孫が目の前で講演をしている。歴史の長さと、伝承され続けている文化を目の当たりにして胸が高鳴った。

先祖・母里太兵衛と黒田藩の関係

 1600年、黒田長政は徳川家康につき、関ヶ原の戦いで大功をたてた。彼に仕えていた戦国武将が、母里太兵衛だ。太兵衛は槍術に優れた強力の勇将で、優れた精鋭を集めた「黒田二十四騎」の中でも特に重用された「黒田八虎」の一人でもあった。彼が、長政の盟友・福島正則のもとを訪れたときのことだ。正則は「一献受けろ」と酒を勧めた。
 太兵衛は”フカ”というあだ名がつくほどの酒豪だったが、長政の使いで来ているのだから、酒など呑めるはずがない。しかし、どんなに断っても正則は引き下がらず、「この大盃を見事に飲み干したならば、お前の望みのものをやろう」とまで言い出す。
 ついには「これしきの酒に背を向けるとは黒田の者は腰抜けばかりだ」と、黒田藩を罵倒し、太兵衛を挑発してきたのだ。これ以上断って争いごとを起こしては厄介だと腹を決めた太兵衛は、大盃に並々とつがれた酒を一気に飲み干した。これが、かの有名な「黒田節」の元になった話である。

名槍日本号を呑み取った伝説

 そして、「所望した品をやる」という正則との約束通り、太兵衛は「名槍日本号」をもらって悠々と帰路についたのだった。
 「盃は両腕に抱えるほどの大きさだったと言われています。五、六合はゆうに入っていたでしょう。それを勧められるまま、三杯呑んだそうです」
 「名槍日本号」は織田信長、豊臣秀吉の手元を経て、正則が拝領した代物。そう簡単に渡せるものではないが、武士に二言はないと、正則は泣く泣く手放したのだ。日本号は今、福岡市博物館に展示されている。全長3メートルに及ぶ大きな槍。太兵衛は、そんな、普通の人では抱えきれないような槍を馬上に持ち抱えて帰ったのだ。この逸話は、太兵衛の武士像を現すものとして今もなお「黒田節」として語り継がれている。

 のめのめ酒をのみこみて 日の本一のその槍を
 とりこすほどにのむならば これぞまことの黒田武士

 ”酒はのめのめ、のむならば~”のフレーズのほうが馴染みがあるが、実は前者が高井知定がつくった呑み取り槍の今様なのだ。現代は改変されたものが広く知れ渡っている。

今も息づく黒田武士の精神

 講演が終わった後、皆で乾杯をする機会があったが、母里さんは「車で来ているので」と、ひと口も酒に手をつけなかった。母里さん自身はご先祖ほどお酒には強くないと謙遜する。
 「母里太兵衛にはあまり派手な武勇伝がありません。戦場で首をいくつとったという話も伝わっていない。しかし、常に先陣を務めながらも、槍傷や刀傷は受けていなかったそうです。太兵衛の内に秘めた強さを感じ取った敵のほうが、避けていたのかもしれません」
 新影流の奥義”戦わずして勝つ”とは、母里太兵衛の武士道そのもの。酒豪の血はさておき、黒田武士の魂をしっかりと受け継いだ母里さんは現在、柳生新影流兵法柳心会本部の師範と、筑前黒田節顕彰会の会長を務めている。日々、黒田の武士魂を伝えているのだ。
 今、母里太兵衛の勇姿は銅像となって、博多駅玄関口に堂々と建っている。佐賀から福岡へ来た際に、いつも待ち合わせのポイントに使っていた銅像は、実は、福岡の歴史上、名高い人物だった。
 太兵衛の話を聞いていたらお酒が飲みたくなってきた。もしも私が五合の盃を三杯飲み干したら、何をもらえるだろうか。挑戦者、求む。

文:株式会社チカラ 内川美彩 写真:比田勝 大直

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