第1回目の達人は、みなさんご存じの漫画家・長谷川法世さんでした。法世さんは現在、「『博多町家』ふるさと館」の館長も務めていらっしゃいます。
講師:長谷川法世さん
2009年9月24日 会場:建立寺
秀吉が行った「太閤町割」
お話しはまず、秀吉が行った「太閤町割」から始まりました。天正15(1587)年に九州を平定した秀吉は、すぐさま荒廃した博多の町の復興のために、新たな町割(町の区割り)を行います。秀吉は、沿岸部と内陸部をつなぐように南北に長い道を作り、その筋ごとに組織された「流」が町を運営するように取り決めました。唐津街道などの主要な道を挟むように作られた「流」は、外敵を攻めやすい工夫でもあったようです。
山笠や、元々砂丘だったという地形の話など、さまざまな話題に行きつ戻りつしながら、法世さんの話は、「流」の細部、商人の町ならではの「町家」に向かいます。
「流」の細部、商人の町ならではの「町家」
「町家」は極端な短冊型の敷地に建てられており、間口が狭く、奥にいくつもの部屋が一列に続いていくため、「うなぎの寝床」とも呼ばれていました。通りから見えるのは店舗だけ。その奥に庭などの空間が配置されており、通気性や採光、さらにはぴったりと接する隣家とのプライバシーを保っていたとのことです。また、「町家」が並ぶブロックの内部には、会所と呼ばれる公の場があり、そこでまちの自治を話し合ったりしていた……と、ホワイトボードに「町家」の内部を立体的に描きながら説明する法世さん。
当時の様子に詳しくない実行委員会メンバーも、その絵のおかげで、みるみる引き込まれていったのでした。1時間はあっという間に過ぎ、「晴好の風」と「紅蓉軒」(春吉2丁目)の料理を囲んでの懇親会へ。
法世さんが箸をつける暇もないくらいに、まち談義を仕掛ける(笑)参加者たち。それでも快く応えていただき、陳謝、感謝の夜となりました。京都の町家と博多との違い、承天寺の落ち葉炊き、四つの小学校が統合してできた博多小学校の話、空港が移転すると博多の町並みはどうなるのかという話、そして春吉と足軽の関係など、さまざまな話題が飛び交いましたが、法世さんは最後に、「博多は、当時の最高・最新の技術を持って作られたまち。誇りを持っている」と語ってくれました。また、「歴史や伝統を含む”文化”を共有することが、まちづくり・ひとづくりの秘訣である」とも。
文:末崎光裕 写真:比田勝 大直
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